「南京大虐殺」捏造のまとめ

 1927年3月24日 中国国民党軍の北伐軍が南京に入城しました。当初は平和裏に入城していましたが、まもなく、「華俄一家」(「ソ連と中国は一家である」の意)、「日英帝国主義打倒」を連呼して反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が日本を含む外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、当時の30数名いた日本人婦女は少女にいたるまで陵辱されて、金目の物を略奪される「南京事件」が起こります。

 1937年7月29日 中国の通州において中国人保安隊が女性や子供を含む日本人居留民200人以上を拷問した上で、猟奇的に殺害した「通州虐殺事件」が起こります。共産主義の軍隊は兵士が一般人に対して掠奪や強姦を行う事を容認していたので当時の中国は治安が悪かったのです。日本軍は中国の治安を回復するために戦う事を決意します。

 8月13日 国民党軍が日本租界へ攻撃を開始した事で日本軍との本格的な軍事衝突が起きました。「第二次上海事変」が閣議決定します。15日 蔣 介石(ショウ・カイセキ)も「対日抗戦総動員令」を発令し、自らが陸海軍総司令官につきます。

 12月7日 日本軍に包囲された南京城から蔣 介石と中国首脳部は脱出します。南京城周辺では国民党軍により「清野作戦」(三光政策)が行われています。南京城周辺の農家で、掠奪、虐殺、放火を行い清野にして日本軍に利用されない様にするのです。国民党軍は南京城内でも、掠奪・強姦を行っていました。

 12月13日 中国国民党の南京戦の総司令である唐 生智(トウ・セイチ )は長江左岸にボートで逃走します。司令官が降伏もせずに逃げ出した事で、指揮系統を失った各隊では、包囲突破・徹底抗戦 ・撤退命令・潰走兵の武力阻止、等の命令が入り乱れて混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区に逃れました。城内でも便衣を求めた中国兵により掠奪が行われ住人が殺害され建物が放火されます。

 退却命令の不徹底から、狭隘な通路に殺到した中国兵達と、潰走兵の武力阻止を命令された部隊が衝突して、双方が発砲して大パニックとなります。銃撃の死傷者と後方からの圧迫で多数の兵士が踏み潰され、築かれた高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えた兵士の多くが垂直の城壁を急造ロープで降りようとして墜死しました。

 別の中国兵は挹江門、下関一帯に船を求めて押し寄せ、殺到します。国民党軍は揚子江の無断渡河を厳禁していて、違反者は武力で制圧だったので、同士討ちが起こりました。北部の長江へつながる挹江門には「督戦隊」が置かれて撤退する中国兵を虐殺します。撤退作戦の不手際により空前未曾有の惨劇が展開され、無数の中国軍兵士の生命が失われたのです。日本軍が突入する事で南京城は陥落し、日本軍は掃討戦へ移行します。当時の様子を朝日新聞は次のように伝えています。

「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(1937年12月26日東京朝日新聞)

 この日に城内の第三国人を保護するため、日本の外交官、福田 篤泰も入城しました。早速届いた第三国人の手紙には「謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」とあり、南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補は後に、こう証言しています。

「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)

 12月17日 日本軍は入城式を行います。南京の避難民は 「日本軍万歳」と叫んでいました。夜になり第13師団の残留捕虜約4,000人を釈放するために江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり日本軍警戒兵を襲撃したため射撃を加え、約1,000人が射殺され、他は逃亡しました。日本軍の行った「南京大虐殺」はこの時の捕虜の殺害と、この後に避難民に紛れ込んだ便衣兵の摘発・処刑です。

 アメリカ人宣教師のミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴っています。

 12月23日には南京市で自治委員会が設立して治安が回復しています。後に日本軍の慰安所も開設してます。日本の軍服を着て日本軍を騙る便衣兵により、強姦・掠奪・殺害事件が起こっています。軍規の乱れが語られる原因です。日本軍は取り締まっていました。掠奪どころか食糧の供出や避難民へのワクチン接種も行っています。治安が回復したからこそ人口の増加があったのです。

南京大虐殺が行われている最中の南京市の様子 1938年の朝日グラフより

 日中戦争が起こった事で日本は欧米からの資源の輸入を止められます。日本軍はフランスが植民地化していたインドシナを解放して占領します。すると米国は日本が到底了承する事の出来ないハルノートを突きつけてきました。日本は自国が植民地とされないために、勝てる見込みのない太平洋戦争に突入したのです。太平洋戦争当初は欧米に植民地とされていたアジアの国々を解放して占領します。また別の国では植民地からの解放に協力したのです。

 大東亜戦争終了時に連合軍が最も恐れたのは日本軍が欧米の植民地支配からアジア各国を解放した「アジア解放軍」として歴史に名を残す事でした。当初のGHQは共産主義を認める容共であり、多くの共産主義信者が活動していました。日本で軍国主義が復活しない様に、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)が行われました。

 日本に二度と軍国主義が復活しないように、検閲と宣伝計画で歴史を捏造して日本人に残虐な侵略戦争を起こしたと罪悪感を植え付けて、全ての罪を残虐な侵略戦争を起こした保守思想の責任だと糾弾することで、言論に圧力を掛けて欧米の植民地支配への非難をかわし、日本への絨毯爆撃や原爆投下を、残虐な侵略行為を止めさせるため、仕方なく実行したのだと、正当化しようとしたのです。

 日本社会を左傾化する為に労働組合の結成も促進します。「公職追放令」をもって保守思想とみなされた人物を公職から追放しました。 極東国際軍事裁判 (東京裁判)では日本軍は南京では20万人虐殺、マニラでは10万人虐殺と歴史捏造して、日本の戦争指導者を国際法に無い事後法の「平和に対する罪」でA級戦犯として裁いたのです。共産主義を美化して保守思想に圧力をかけるWGIPで、日本社会は大きく左傾化しました。

 しかし、国民党が台湾に押しやられ中華人民共和国が成立し、ソ連から武器供与を受けた北朝鮮が韓国に侵略する朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサー総司令は共産主義を脅威と認めて、容共から反共へ方針を変えます。教育界や報道界から共産主義信者を排除する「レッドバージ」を行なったのです。しかし、教育界や報道界に共産主義は深く浸透していてWGIPを引き継いだのです。

 1960年5月~6月 強行採決された新安保条約に30万人と言われる全学連のデモ隊のほとんどが、日米安保条約の内容も知らないままに新聞の扇動記事に乗り、熱に浮かされたように「アンポ ハンタイ」を声高らかに唱えながら塀を乗り越えて国会に突入します。6月19日に新安保条約は参議院の承認のないまま自然承認され、批准書交換が行われて条約が発効した6月23日に岸 総理は退陣を表明します。

 中国共産党を率いた毛沢東(モウ・タクトウ)は1958年から「大躍進政策」を行いますが、600万人以上の人民を処刑死・拷問死させて、産業・インフラ・環境の大破壊を引き起こした結果、1,000万人以上が餓死する大飢饉を引き起こします。1961年毛 沢東は復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を失脚させるために「文化大革命」と言う官製暴動を始めます。死者数は数百万人から2,000万人以上と推定されています。大量の人間を殺害する共産主義を美化するマスコミは狂っています。朝日新聞は中国の内戦状態を近代化への道と評価していました。

 1970年 中国内では続く内戦状態にともない経済活動が停滞して、疲弊はピークに達し騒乱は次第に沈静化していきます。技術も文化もうしなった中国は国民党が放棄した戦後賠償の代わりに、日本からの経済支援と技術供与を切実に欲していました。そのためには中国が日本から甚大な被害を受けたと歴史捏造する必要がありました。1970年3~4月 親中派の国会議員と共に朝日新聞の広岡 知男社長が訪中します。中国共産党に1ヶ月間も歓待をうけ帰国します。9月 朝日新聞社以外の全ての中国特派員が国外退去処分になりました。10月 広岡 社長は新聞協会主催研究会で「中国の意向に沿わない記事は書かない」と明言します。

 1971年8〜12月 現地ルポと称する「中国の旅」「平頂山事件」「万人坑」「南京事件」「三光政策 」の4部に分けて連載報道しました。報告者は本多 勝一記者です。朝日新聞社による日本人を貶めるための歴史捏造が始まったのです。中国側の証言をそのまま載せて、事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。これらの捏造記事は全く事実確認や検証も受けないまま、後に出来る「近隣諸国条項」や左翼系文化人の手で 事実として歴史教科書に掲載されて教育現場に持ち込まれ感受性豊かな子供に教え込まれたのです。

「中国の旅」の内容は1950年から中国共産党が、中国残留日本兵やシベリヤ抑留者を中国の戦犯収容所で教育して捏造した物です。1956年から中国共産党に罪を許されて、帰国した元日本兵の一部は、「中国帰還者連絡会」を創立し「反戦平和運動」「日中友好運動」を展開したのです。朝日新聞の連載報道に合わせて、「中国帰還者連絡会」の会員が証言をする事で「南京大虐殺」が捏造されていたのです。

 朝日新聞が1971年に報道した「南京事件」より記事の引用

「日本軍がなだれこむ。大混乱の群集や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した。川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった。どこへ行っても空気は死臭で充満していました。」

「虐殺は、大規模なものから1人~2人の単位まで、南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた。紫金山2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、約30万人が殺された。」

「日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた。このことについては、多くの写真が残っている。強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・。5万人もなだれこんだ日本軍。そのすべてではむろんないにせよ、かなりの兵隊が加わった強姦事件の被害者は何万人におよび、1人が1度に30数回もつづけて強姦された例があるので、件数は何十万件とも見当がつかない。10歳前後の童女から70歳以上の老女まで、すべて強姦の対象なのであった。」

「ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。「永利亜化学工業」では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。」

「南京事件で日本軍が殺した中国人の数は、姜さんの説明では約30万人という大ざっぱな数字を語っていたが、正確な数字はむろん知る由もない。東京裁判のころの中国側(蒋介石政権当時)の発表は43万人(市民23万、軍人20万)だった。東京裁判判決では11万9000人だが、これは明白な証言にもとづくものだけなので、事実より少ないと見る研究者もいる。洞 富雄 著『近代戦史の謎』の分析は、30万人、あるいは34万人説を事実に近いとみている。」 

 証拠とされる、証言・日記・写真が全て捏造と判明しています。「中国の旅」を報告した本田 勝一記者も中国側証言を無検証で報道した物と認めています。2017年 GHQにより1946年に没収・封印されていた、日本に留学経験のある国民党軍の中国兵の告白本『 敗走千里』が復刻版として再刊行されて、南京事件の実情が明らかになります。中国の南京市にある「南京大虐殺記念館」 は、リニューアルします。朝日新聞の記事は信憑性が低いとの理由で展示を取り下げられました。「南京大虐殺記念館」 は日本軍が南京とそこに至るまでに中国で殺害した総数が30万人と修正します。

 日本のマスコミ全体が結託して、中国に配慮した報道を行う事で正しい歴史が隠蔽されています。新聞社が結託して歴史捏造を、容認・擁護、して共産主義を美化して布教するために、情報操作をしているとすれば由々しき問題であり、日本国民に対する背信行為です。

 朝日新聞の報道した日本軍が入城後の12月~2月上旬まで、強姦・掠奪・虐殺・放火、を行い中国人30~34万を虐殺したと言うのは完全に捏造です。国民党軍が行った、強姦・掠奪・虐殺・放火、を時期を日本軍の入城前から入城後に変更する事で日本軍に付け替えた歴史捏造です。日本新聞協会が自主的に定めた新聞綱領には「報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。」とあります。

 1984年 南京戦に派兵された元日本兵の有志からなる「都城二十三連隊会」が朝日新聞が掲載した証拠写真の偽造を確認して、朝日新聞に対して「南京事件」の記事取り消しや謝罪文掲載の要求しています。日本新聞協会と朝日新聞には公開された論議の場で、朝日新聞の記事が報道を誤っていないか検証した上で 「都城二十三連隊会」の要求に応じていない理由の説明を求めます。

 新聞の正義は問われています。


・最後まで読んでくださりありがとうございます。

 共産主義に偏向した日本のマスコミにとっては非常に認めがたい内容です。ですので絶対に取り上げられないでしょう。しかし大変革が起こっている今こそ、朝日新聞は報道機関を名乗るなら真実を明らかにするべきです。

 そのためには日本国民が声を上げて新聞を正義に目覚めさせる必要があります。正しい情報は民主主義の生命線です。今までに朝日新聞が行ってきた歴史捏造を明るみに出したうえで、認めさせることでマスコミから中国共産党の影響を取り除き、偏向していない信頼できる報道機関を日本に取り戻しましょう。

 宜しければ拡散のご協力をお願いします。

令和 3年12月27日 大阪のネトウヨ

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