韓国建国時の歴史
李承晩(イ・スンマン)は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国なりました。朝鮮戦争が一段落すると国中に平和だった日本統治時代を懐かしがる雰囲気があふれ出したのです。
李承晩大統領は保身の為、自国民虐殺等の残虐な支配を糊塗し国民がもつ日本統治時代の郷愁を断ち切る為に
「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である」 と国民に説いて自己政権を正当化しました。
「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いとしました
日本統治が良い時代と言う国民は他の政治犯と一緒に処刑したのです。
朝鮮戦争時は韓国軍は恐ろしく残虐な戦争犯罪を犯しています。大量の自国民虐殺と女性の強制連行、強姦、略奪、その背景となる韓国建国時の歴史を簡単に語ります。
日本は大陸との緩衝地帯として、中露と戦い大韓帝国の自立を求めますが、当時の大韓帝国は国民の約20%に満たない貴族階級の両班が48%の国民を奴隷化して使役する残虐な支配をしており、両班しか読み書きができず。国としてまともに独立する事は出来なかったのです。大韓帝国は日本に併合を求めました。日本は了承します。日本の大韓帝国の併合は欧米の植民地支配と違って紳士的な物でした。
李王家は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けます。身分制度を撤廃して、民族の文化を尊重してハングルを編成して教育します。朝鮮半島に日本は国家予算の10%も持ち出して、学校・病院・裁判所・鉄道を建設してインフラを整えたのです。日本人の人間を大切に思う思想が朝鮮人を解放して朝鮮半島を近代化したのです。朝鮮人への差別と思われるのは、半島の労働力低下を抑えるための日本本国への渡航を制限した事くらいです。身分を取り上げられた両班は日本を恨みました。後に韓国の初代大統領となる元両班の李 承晩はハワイに亡命したのです。
1945年8月 太平洋戦争終戦間際にソ連は満州国へ兵を送り占領します。日ソ中立条約を破り、日本領だった朝鮮半島も兵を送り占領しようとしました。アメリカはソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案します。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領されました。1946年5月に南朝鮮全土にコレラが流行します。水害による交通破綻や強制拠出などにより、米価が日本統治時代に比べて10倍以上に高騰しました。9月にはいると抗議デモが頻発しました。10月1日に抗議デモに対して南朝鮮警察が発砲して市民を射殺します。その抗議活動により収拾がつかなくなったため、10月2日には在韓米軍が戒厳令を布告しました。戒厳令に反発がおき、南朝鮮全土で230万人が参加する騒乱に発展します。事態を収拾するために、アメリカ軍や南朝鮮防衛隊や警察、右翼団体が投入され、136名の犠牲者を出し騒乱は収拾しました。反乱を強引にねじ伏せた事で在韓米軍への支持は失われ、南労党などの共産主義団体への支持を増やす結果となりました。
南労党員の多い済州島で全島ゼネストが決行されました。韓国の初代大統領となる李承晩は見せしめとする為に、右翼青年団を送り込み国家公認の白日テロ(暴行、強姦、略奪)を行わせて弾圧します。
1948年4月3日 済州島島民の一部は弾圧に反発し武装蜂起します。李承晩は国防警備隊(後の韓国軍)を投入し制圧します。済州島島民を無差別に、略奪、虐殺します。被害者は韓国政府の発表で1万4千~3万人、6万人以上と主張する研究者もいます。
島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を強制連行して、凌辱の後に殺害したと言われています。村は焼かれ多くの犠牲者が出ました。 多くの島民は日本へ密航や逃亡で逃れ在日コリアンとなったのです。1948年に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされています。
共産主義の「清野作戦」です。ゲリラに利用されないよう無関係の島民まで虐殺して、焼払い原野にするのです。後の吉田証言はこの歴史事実を意識したものでしょう。しかし吉田 清治 は3万人弱に激減した済州島の地図を元に著作を書いたので、取材しても強制連行の証言を得る事は出来なかったのです。
1948年8月15日 大韓民国政府樹立を宣言。李承晩は韓国初代大統領に就任します。李承晩は元々大韓帝国の貴族階級の両班であり、日本の併合に反対しハワイに亡命していました。重慶に設立された大韓民国臨時政府でアメリカ政府との連絡役となり、太平洋戦争終戦時に韓国に戻ってきたのです。共産主義の人間を大統領に据えたのは在韓米軍の判断ミスです。共産主義者は他者に敬意が無く、人権を認めず人命を蔑ろ にするからです。9月9日には金日成を朝鮮労働党委員長して朝鮮民主主義人民共和国も成立します。
1948年10月済州島鎮圧のため出動命令が下った、全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊で、隊内の南労党員が反乱を扇動しクーデターが起きます。地域を巻き込み広範囲の反乱となります。李承晩は直ちに鎮圧部隊を投入し、1週間で鎮圧しますが残兵は山中へ逃げ込み、長くゲリラ抵抗が続きます。制圧のため「清野作戦」 で非武装の民間人8000名も虐殺されました。 この時も多くの者が日本へ密航や逃亡し在日コリアンとなったと言われています。
1948年12月 左翼を摘発すために、反国家活動を規制する「国家保安法」を制定します。
1949年1月7日 対馬と九州を含む李承晩ラインを宣言し戦勝国として、在韓米軍に対し対馬と九州の引き渡しと朝鮮進駐軍の日本駐留を要求し、在韓米軍に激しく叱責されます。2月には半島南部で大演習を装って対馬と九州北部への侵攻の準備を始めますが、在韓米軍が制止します。激怒したマッカーサーは警告の意味で韓国軍への武器供与を停止します。5月から在韓米軍は韓国から撤退を始めて6月には撤退が完了します。
1949年6月 左翼系人物を管理・監視する機関として「国民保導連盟」を設立します。左翼思想者でも「国民保導連盟」に登録して、愛国者として改心することで、過去の行いでの処罰はされず、国から就職の斡旋や配給を有利に受けられる言う事で、100万人以上の韓国国民が登録します。
1950年6月25日 米国からの武器供与を止められ上、在韓米軍が撤退した韓国に比べて、ソ連からの武器供与をうけて軍事的に優位になった北朝鮮軍が、朝4時に砲撃を合図として、10万人以上の北朝鮮兵が進軍を開始しました。
6月27日 深夜1時に中央庁において非常国務会議で「国会議員は百万のソウル市民とともに首都を死守する」との決議がなされますが、同時に矛盾する水原への遷都も決定されます。李承晩は午前3時に「国民保導連盟」の登録者が北朝鮮軍に呼応するのを恐れ、虐殺するように命じ、自身は真っ先にソウルから逃げ出します。ソウル市民に遷都の情報が知らされたのはその3時間後の午前6時でした。
6月28日午前1時頃、北朝鮮の戦車隊が市内に侵入すると、まだ主力部隊が交戦しているにも関わらず、午前2時30分、北朝鮮軍の南進を遅らせるため、約4000人の避難民で溢れる漢江人道橋と3本の鉄道橋を韓国軍が爆破したのです。多くの被害を出した作戦でしたが、爆薬の不備から鉄道橋2本の爆破が完全でなく残ったため北朝鮮軍の南進を遅らせる事は出来ませんでした。
1950年6月29日 マッカーサーは水原に入り、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめく前線を視察します。韓国軍と派兵を約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻りました。マッカーサーはその後も韓国内には拠点を置かず、東京から専用機で戦線へ出向き、日帰りで戻るという指揮方式を取り続けます。
7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、西日本に駐留していたイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍が結成されます。準備不足で人員と装備に劣る国連軍は各地で敗北を続けます。大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められます。北朝鮮軍は再三に渡り大攻勢を繰り広げ、釜山陥落も危惧される情勢となります。
李承晩は日本の山口県に6万人規模の亡命政府を建設出来るよう日本側に準備要請を行っていました。追い詰められた国連軍は釜山橋頭堡の戦いを徹底抗戦の覚悟で臨み奮戦し、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めたのです。
1950年9月15日 マッカーサーの発案で約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功します。ソウル近郊の仁川に奇襲上陸することで北朝鮮軍の補給路を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より、北朝鮮軍部隊を挟撃する作戦(スレッジハンマー作戦)は大成功します。ソウルを北朝鮮軍から奪回することに成功します。
反撃を開始した国連軍は38度線を越えて進撃を開始しました。10月10日に韓国軍が軍港である元山市を奪取します。元山港からはアメリカ第10軍団が上陸します。10月20日にはアメリカ第1騎兵師団と韓国第1師団が、北朝鮮の臨時首都の平壌を制圧しました。平壌を脱出していた金日成は中国の通化に事実上亡命し、その息子と娘である金正日・金敬姫兄妹も中国に疎開して吉林省の中国人学校に通学していました。
この頃の国連軍は、至る所で相互の支援や地上偵察の連絡すらできず、多くの異なったルートを辿りバラバラに中朝国境の鴨緑江を目指していました。また補給港も遠ざかり補給路は狭く険しく曲がりくねっており補給を困難にさせていたのです。日帰りで指揮をとるマッカーサーは地勢や現地の状況を、正しく理解していませんでした。
1950年10月2日 金日成よりの毛沢東宛ての部隊派遣要請の手紙を受け取ると、毛沢東はソ連と協議して、ソ連の航空戦力援助を条件に参戦を決意します。抗美援朝義勇軍は、最前線だけで30万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大部隊を編成します。中朝国境付近に集結した中国義勇軍は10月19日から、国連軍の空からの偵察を欺くため夜間に山間部を進軍し隠密裏に鴨緑江を渡り、北朝鮮への進撃を開始します。
中国軍は国連軍の動きや部隊配置を全て認識した上で待ち構えていました。中朝国境付近は山岳地帯で進軍が困難な上に、半島が西東に広がり軍は広範囲に分散する事になります。両軍の兵力はほぼ互角です。11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始します。しかし翌25日には、中国軍の方が総攻撃を開始しするのです。
最初の標的は前日の戦闘被害で中国軍との戦闘を、極度に恐れている韓国軍第2軍団でした。最初の攻撃で第2軍団のほとんどが分解して消えてしまいました。とある連隊では500名の兵士のほとんどが武器を持ったまま逃げ散ったと言われています。韓国軍を撃破し数的に優位に成った中国軍は残りの国連軍に対し優位に戦ったのです。
状況の深刻さを認識したマッカーサーは統合参謀本部に向けて「我々はまったく新しい事態に直面した。中国兵は我が軍の全滅を狙っている」と報告します。11月28日の夜に東京で主要な司令官を召集し作戦会議が開かれます。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出ませんでしたが翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされます。作戦会議の間にも国連軍の状況は悪化する一方です。
統合参謀本部のリッジウェイ副参謀長の提言で第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとし、各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行いました。退却した距離は10日で200キロにもなりましたが、撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れました。12月5日 制空権奪還で勢いづいた中朝軍は平壌を奪回します。翌年1月4日には中朝軍はソウルを再度占領します。
1950年12月21日 45%も喪失した韓国軍を補充するため李承晩は国民防衛軍法を発効すると「韓国軍人・警察官・公務員・学生に該当しない満年齢17歳以上40歳未満の男子」約40万人を動員して10万の韓国軍人と合わせて、50万の将兵達を51個の教育連隊に分けて国民防衛軍(韓国軍)を編成しました。しかし早急に編成された軍隊であるため、予算不足や指揮統制が未熟などの問題を抱えていました。
1951年1月4日 中朝軍にソウルを再度占領された為に、前線の後退作戦(1.4後退)を敢行します。国民防衛軍は50万人余りの将兵を、後方の大邱や釜山へと集団移送することになります。しかし、李承晩と防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のための軍事物資や兵糧を不正に処分、着服していました。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者や凍死者と無数の病人を出す「死の行進」となったのです。
1951年3月7日、アメリカの第9軍団と第10軍団、韓国の第1軍団と第3軍団が北進を開始しました。中朝軍の抵抗を受けながらも3月14日には韓国第1師団が漢江を渡河し再びソウルを奪回したのです。
16日には洪川を、19日には春川を奪回しました。戦争はほぼ終結します。
この時は韓国の首脳陣は帰還せず臨時首都は釜山市でした。
4月11日にトルーマン大統領はマッカーサーをすべての軍の地位から解任します。後任としてアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任しました。
韓国第11師団は太白山脈や智異山付近の南部軍 ゲリラ討伐を任じられます。 ゲリラ討伐のために「清野作戦」を実施します。
1951年2月7日に韓国陸軍第11師団第9連隊第3大隊は、山清郡今西面芳谷里佳峴村を急襲しました。村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃撃を加え虐殺します。金目の物を集めた後に家屋を焼き払いました。 さらに約2キロ離れた芳谷村の住民212名にも銃撃を加えます。13時半に続けて咸陽郡休川面棟江里で60名を虐殺しました。さらに花渓里、自恵里と咸陽郡柳林面の西州里・蓀谷里・池谷村で講演を開催するという口実で住民を西州里トンチョンガン砂礫地に集めて16時半頃、軍警察の家族除く住民310名を虐殺しました。全体の犠牲は12の村々の住民計705名になります。
2月9日から2月11日にかけては韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で共匪パルチザンを殲滅するためとして住民719人(15歳以上334人と15歳未満385人)を虐殺しました。韓国軍は、韓国警察の家族までも除外することなく虐殺したのです。
韓国軍は国防警備隊の時代から自国民に対してこのような、略奪、虐殺を行っています。そのさい女性を強制連行していました。陸軍にあった「特殊挺身隊」という組織に、強制連行の女性が連れ込まれ部隊に一定人数を「第五補給品」として割り当て、兵士の性奴隷にしていたのです。
1950年12月 李承晩は主に国連軍から外貨を稼ぐ目的で国営売春を行います。売春宿形式の固定式と、韓国軍に命じドラム缶風の容器に娼婦を一人ずつ詰めて戦線に送り、夜になると営業する移動式の形式がありました。容器に詰められ戦場で営業する慰安婦は「従軍慰安婦」と呼ばれました。休戦時に特殊慰安部隊の資料は徹底的に処分されましたが、休戦時に30万人に及ぶ娼婦が存在した事実から、8~20万人の特殊慰安部隊が存在したとされています。韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられています。
この歴史を元に朝日新聞は「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万人とも20万人ともいわれる。」の記事を書き韓国軍の戦争犯罪を日本に押し付けて、歴史捏造を果たしたのです。 挺身隊は日本では勤労奉仕ですが韓国では慰安婦の事です。
朝鮮戦争が一段落すると平和だった日本統治時代を懐かしむ雰囲気が韓国中にあふれ出ました。李承晩大統領は自身の自国民虐殺等の残虐な支配を糊塗し保身を図るために
「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨政を引き継いだのが李承晩政権である。朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」と何もかも日本が悪いと歴史捏造したのです。日本統治が良い時代だったと言う国民は政治犯として処刑して、徹底した反日教育を始めました。
1952年1月 李承晩ラインを引き竹島を占領しました。日韓基本条約が結ばれる13年の間で、日本の漁船328隻を拿捕し、漁師3929人を拘束、そのうち44人が死傷しました。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの、劣悪な抑留生活を強いられていました。
1952年5月 李承晩の大統領任期は8月までで、再選は絶望的でした。すると釜山一体に戒厳令を出し野党議員を逮捕して、大統領の選挙制度を、国会議員の間接性から国民の直接選挙に改憲し、不正選挙で再選をはたすのです。
1953年7月に北朝鮮、中国軍と国連軍の間で休戦協定がむすばれます。李承晩は休戦条約を不服として認めなかったので、未だに戦時中です。そして朝鮮戦争の賠償を受けていません。その為、韓国は世界一の最貧国になったのです。
1956年 日本では生活保護費の削減と1957年~1958年にかけてのなべ底不況は、貧困層の生計を直撃して生活に困窮する者も多かったのです。北朝鮮は在日朝鮮人学生を衣食住・学費の全てを無償で北朝鮮へ受け入れると発表し、在日朝鮮人の帰国を呼びかけます。
1959年8月 李承晩は在日朝鮮人引取りを拒否していて居住地選択の自由という人道主義に反すると国際社会から非難されていました。李承晩は「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示します。カルカッタで日朝赤十字社間で帰還協定が締結したことに対し韓国民団 (在日本大韓民国居留民団)は北送反対闘争委員会を結成しました。8月25日には韓国民団員たちが日本赤十字本社に乱入します。
危機感を募らせた李承晩は日本に工作員を送り込み北韓送還阻止工作を行うことを決定します。
1959年9月、韓国政府は国内の在日義勇兵(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、日本に潜入して妨害工作活動を行う工作員となるよう要請したします。韓国政府は在日義勇兵41人と、軍予備役将校と警察試験合格者24名、さらに日本国内で組織した工作員も含め、北韓送還阻止工作員を結成しました。
1959年9月末、ソウル江北区牛耳洞の訓練所で「破壊班」「説得班」「要人拉致班」に分かれて訓練が行われます。12月初旬、潜入アジトを設けるために先発隊が慶尚北道慶州市甘浦港から、船員に偽装して貿易船に乗り込み、ボートに乗り換えて小倉と関東で活動する部隊ごとに海岸から上陸しました。工作事件の舞台となる新潟県に隣接する富山県には、テロ部隊の本部がおかれたのです。
韓国政府のテロ計画は主に次の4点を任務としていました。
1.在日朝鮮人帰国事業担当の日本側要員の暗殺。
2.日本赤十字社の破壊。
3.新潟港に通じる鉄道線路を破壊。
4.韓国民団に諜報活動員を偽装入会させ、日本側の警戒を受けずに政財界やマスコミへ浸透する。
日本で活動していた工作員は、芋ずる式に逮捕され1~3の任務は失敗します。しかし4の任務は成功したようです。
1960年3月 政敵を暗殺し、あるいは警察に逮捕させて、改憲を繰り返し3期の12年大統領を続けた李承晩ですか、4期目の選挙は時期を繰り上げて強硬実施し、官憲を総動員してのものすごく酷い不正選挙を行います。その結果、得票率が95%~99%にも達してしまい大規模不正を行っていた事実が発覚します。4月革命で韓国を追われて、再びハワイに亡命します。
1965年7月19日に90歳で客死し生涯をおえます。
このような歴史こそ、同様の惨劇を繰り返さないため後世へ伝えるべき事だと思えますが、 日韓のマスコミは殆ど取り上げません、そのため韓国政府は、李承晩の残虐な恐怖政治を糊塗するため、悲惨な朝鮮戦争被害を日本併合時の事と置き替え、日本が朝鮮から何もかも奪ったと子供に教育して反日感情を煽り、国を挙げて反日活動を行っているのです。そして何故か日本が残虐な支配をしたという嘘が史実として定着しつつあります。
新聞各社は過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝える責任があると思えます。正確かつ公正な報道をお願いします。
朝鮮戦争勃発から70年、数多い犠牲者に哀悼の意を捧げます。
2020年6月25日 大阪のネトウヨ
2022年4月1日 一部加筆しました